井上の悩み
吉岡 亨
この春で社会人三年目を迎えたごくごく普通の会社員井上は、このところ何をやっても気が入らないようだ。
ボーとしている。はしゃいでいるかと思うと、急に黙り込んだりする。情緒不安定。彼に何が起こったのか。最近フラれたという噂もあるが、それだけが原因ではなさそうだ。何を悩んでいるのだろう。青年期特有の虚無感だろうか。それとももっと切実な問題を抱えているのだろうか。
井上、ハゲてきたのである。
その予感は確かに以前からあった。
いやその時が来るのを、井上は当然のこととして覚悟していた、と言うべきかもしれない。
だって、誰だってわかるよ、そんなこと。親戚全員(本当に全員!)ハゲちゃってんだから。正月なんか、大変な光景になってしまう。四方八方、御来光だ。いっそ、スガスガしいね。イトコもハトコも、井上家一同総崩れ状態。
井上の親父は、二十五歳頃から「キた」そうだ。
その当時の免許用の白黒写真が一枚残っていて、アイパーをビシッと決めた親父が澄ました感じで写っている。少し額が広いが、まだまだ豊富である。男前だ。しかし、物心ついた頃、井上の記憶に登場してくる親父は、最初からハゲていた。親父とは、ハゲているものだった。
でも、井上は全然気にならなかったし、恥ずかしいと思ったことは一度もない。親父はいわば、「陽性」のハゲだった。性格が明るいんだ。くよくよしたところがない。笑い飛ばしてしまう。柔道黒帯、体もゴツイ。ハゲについても自分から、他人が気を使わないように先に冗談にしてしまう。トレードマークとして、活用してしまうところがある。
では、親父は全く気にしていなかったか。
そんなことはない。
洗面台にはいつも、新発売の育毛剤が載っかってたのを、井上は知っている。いわゆる、悪評高いバーコード、一九分けにしているが、これはしょうがないんだ、サラリーマンなんだから。剃っちゃうわけにもいかない。九の方から風が吹いたら、「片ワンレン」になってしまう。
しかしだ。
よく、見苦しいだの、未練がましいだのとバカにするやつがいるが、親父にそんなことを言う奴は前へ出ろ! バカにする資格のある奴なんていやしない。お前は、三十歳で家を建てられるか? 子供二人を大学まで出してやることができるか? 仕事上の屈託を抱えた時、数年間辛抱強く粘り込んで実力で現場に復帰することができるか? そしてなによりも、毎日を明るく楽しく過ごすことができるか?
井上にとって、正しいハゲのあるべき姿とは、親父のことである。
親父の男としての業績、その心意気は、ハゲているからといって、当然、少しも遜色がない。十五年後の「俺」は、親父のような尊厳のあるハゲでありたい。井上はハゲてきたことを悩んでいるわけではない。はたして今のままで親父のようになれるだろうか。自分の仕事に誇りを持って、明るい家庭を築くことができるのだろうか。子供に尊敬される父親になれるだろうか。はなはだ、心もとない。自信がない。この道で一旗上げたる! という、その道がまだ見つからない。
井上は焦っている。焦ってもしょうがないけれども、残り時間が少ないように思われる。そう、生え際がじりじり後退するにつれて、一層焦るのである。
しかし、日本の、特に若い女性のハゲに対する「あたり」は、サッカーの韓国代表DF並みにキツイね。
井上も普段の生活で、ヒシヒシと感じるようになった。
例えば、バタバタッと注文が集中して、受注担当のヒトミちゃんに直接伝票を手渡さなきゃならない時。
不意を突かれたヒトミちゃんの視線がツイッと上方に、約三十度流れたりする。〇・五秒後、内心の狼狽を隠しつつ伏し目がちに「はい、やっときます。午後イチの配達でいいですか?」なんて取って付けたような『さりげなさ』で言われたら、井上も営業スマイルで「よろしく」って返すしかないじゃないですか。
この場合、もちろんヒトミちゃんに悪気は全くない。逆に、井上は申し訳なかったような気持ちになる。
それでも、ちょっと傷つくんだな。
だから、井上は親父のやり方を踏襲することにしている。「陽性」のハゲを目指して、実践していこうと思っている。一見のスナックなんかでは、まず自分からかましていく。こういう所のオネーチャンはことさらハゲに対してタイトな対応するからね。
「ズルピカッちゃってマース!」とか酔ったふりしてオープニングアタックだ。
たいてい、ワーと盛り上がって手っ取り早く打ち解けることができる。飲み屋のオネーチャン達は、カンがいいので不愉快にならない程度にあしらってくれる。中には厳しく突っ込まれれば突っ込まれるほど歓喜に打ち震える、マゾ系のハゲもいるから、その辺りの呼吸も面白い。しかし、最近こんな飲み会の帰りのタクシーの中で、井上は深いため息をつくことが多くなった。
井上は、願望を一つ持っている。
ロマンスグレー。
有り余る白髪をいかにもじゃまそうに、もの憂げにかき上げまくってみたい。
今のままだとその確率は、限りなくミクロ級に少ない。ほとんど、絶望的と言っていいだろう。白髪になる前に毛根が死滅している。毛根ID4。
強力にショックな出来事があると、一夜にして真っ白になるというのは本当だろうか? 確か、アンディ・ウォーホルは白いかつらを愛用してたんだよな。
井上は決意した。
ようし、ヘアマニキュアで染めてやる。