【家族の研究】ナイスパス

先代のおばあちゃんが番台に座っていた頃からだから、数えてみると二十数年にわたってちょくちょく通っている銭湯がある。今時のアクティビティ満載のスーパー銭湯ではなく、下町の公衆浴場。日本国中ですでに絶滅しかかっているオーソドックスな銭湯だが、ここは家族経営でしぶとく営業を続けていて、ありがたい。

メインの湯船のほかに、サウナと水風呂、薬湯も完備。温度調節は可能なものの、お湯の勢いが若干物足りないシャワーがぐるりと二十台ほど並び、風呂桶は由緒正しきケロリンの黄色の桶だ。脱衣所には薄っぺらい鍵がついたロッカー、コイン式のマッサージ機、体重計に扇風機、大きな鏡と有料ドライヤー、育ちすぎた観葉植物、そしてコーヒー牛乳とフルーツ牛乳とポカリスエットなんかを収めた冷蔵ケースがある。さらにその日のスポーツ新聞に加えて、なんと将棋盤まで用意されている(実際に誰かが指しているのを見たことはない)。こうして書いてみるとちょっと演出じみてさえいるが、まごうことなきニッポンの湯殿、身近な庶民の娯楽場としての雰囲気をたっぷり残している。

客層はちょっとばかしヨレッとしているおじいちゃんから、学生、親子連れ、各種労働者まで、さまざま。女湯の様子はわからないが、まあそんなあたりだろう。

オープンは午後二時。諸般の事情で無職の私は、平日の昼間からひとっ風呂浴びたりできる。じっくり入念にヒゲをあたったりして、肌もツルツルになる。

さてそんな時間にもかかわらず、浴場はなかなかの混みようだ。太ったり痩せたりした人生の先輩たちが自分なりの流儀とルーチンを守りつつ、体を洗ったり、湯船につかったりしている。耳が遠いのか、音響がボワンボワンしているから聞こえないのか、会話は大声だ。怪しい水商売風のおじさんは夜の出勤に備えてか、洗い場で入念にグルーミング中。幼稚園ぐらいの男の子ともっと小さな女の子、ゴツいお父さんというファミリーもいる。三十代中盤あたりの脂の乗り切ったプロレスラーみたいな偉丈夫が、せっせと子どもたちの世話を焼く様子は微笑ましい。

そう、微笑ましくはあるんだが……まあ、そのお父さんの背中には、何と云うか見事なジャパニーズピクチャーが再現されている。つまり首から両腕、背中、尻にかけて、ダイナミックに入墨が施されている。どこかの神様か、あるいは神話の動物か、メガネを外しているのではっきりとは確認できないが、うねりのあるタッチと大和絵の豊かな色彩が湯船の湯気越しにでも目に入る。外国のタトゥーなんかよりは断然情緒があっていいね、などと私は考えている。

男の子に号令を下し、女の子を小脇に抱えたお父さんは脱衣所へ。ほぼ同時に女湯の方から「上がるよー」という声がしたが、果たして聞こえていたかどうか。走り回る男の子をつかまえて体を拭く。女の子は拭いたあと素早く「おくるみ」に丸める。そうだ、湯冷めしちゃいけない。

女の子を抱いたまま、お父さんは番台に向かう。番台の二代目おばあちゃんがちょっと体を後ろにそらす。その空間を通して、女の子をおくるみごと受け渡す。女湯側でお母さんがキャッチしているんだろう。ナイスパス。

公衆浴場にはひと昔前まで「入墨者や泥酔者は入場をお断りします」という但し書きが貼ってあったと思うが、それはもはや野暮天か。だってどこからどう見たって立派な「家族」じゃないか。四十過ぎて独身でふらふらしている謎のおじさんよりも、よっぽどしっかり「生活」してるよ、あの一家は。まあ、泥酔者の方はこれからも断らないとダメだけれども。