【狩猟サミット】講演採録(参考)

注意:長いです。

●基調講演「羆撃ちの魅力」久保俊治【採録】
※( )内はコーティネーターの質問。

(狩猟を始めたきっかけ)そうですね、小学校に入る前から親についてずっとやってたんですけれども。経済状態も違いましたし、そのころの鉄砲撃ちはいわゆる日曜ハンターであれ、趣味のハンターであれ、獲物はほとんど自家消費するのがごく当たり前だったんですよ。熊の胆、毛皮は売れますし、肉を食いたいという人もいますし。妊婦さんのお湯の中にクマの腸を乾かした物を入れたいとか、そういう面白い消費のされ方もありました(能登註:安産祈願)。特にクマの毛皮はノミがつきづらいということで、本州の方で人気はありました。

(羆撃ちの大変さ)今は車が発達してるから、昔と違って、街場と山の違いってまったくなくなりましたでしょ。山菜採りでもなんでもどこでも入って行ける。私の若い頃にはそういう所はなかったように思いますね。山菜採りは山菜採りの組合があって、それはそれで仕事としてやってましたけども。自然と街場との境がまだ歴然とあった時代。今はそれがなくなってますから、その辺で狩猟というものをどういう風に考えていくかだと思います。鉄砲持って山に入ること、まあ素人が山に入っていくことが狩猟と言えるかどうかは別問題として、そういう時代になっていると思います。

(技術がなければ…)鉄砲を持ってたって、それじゃあ、ただの危険人でしょ(笑)。今の時代は物があふれてますから、金さえ出せば、物でも鉄砲でもよりどりみどり買えますでしょ。俺の親父の頃はそういう時代じゃなかったですから。子どものころ、金曜日の晩あたりに薬莢磨きをさせられてね。そばで見てると、最後に散弾を二つか三つ、祈りを込めてだと思うんですけど、増やすんですよね。そういうような、猟にいく時の期待と思いというのは、今の人たちにはまったく少ないと思います。ポッと鉄砲持って車に乗ってバタンと行ってしまう。その安易さ、便利さはやっぱり、ある面で獲物に対する期待感や思いについて考える時間を少なくさせていると思いますよ。

(どういう人に羆撃ちをやってもらいたいですか?)静かな人です。たとえば家にいても、生活音のしない人は基本的な能力があると僕は認めますね。それから人に接する時の態度でもなんでも、神経の細やかなところがあること。山に入る前に普段から気をつけようと神経を張っていること。だって山では自分の足で歩くわけですよね。ところが獲物を見つけてから足音が出ないように歩こうとする人がほとんどなんですよ。そんなのもう遅いんですよ、はっきり言って。普段の生活で自分の歩き方はどうなのかに気がつかない人が、山に行って急に足音を忍ばせても、自然の中ではものすごいギャップになって、野生の動物に感づかれてしまうのは当たり前の話で。

それから勝手なことを喋りますけれども、たとえば家にハエがいますでしょ。自分が持ってるハエたたきの長さから何からを意識して、確実に取れるチャンスが来るまでたたかないか、それともメッチャクチャに茶碗があってもたたくか。そういう差まで鉄砲持って山に行けば出てくるんです。だってハエだって生き物で、一発で倒そうと思ったら、どの瞬間まで我慢しなきゃならないか、どういう状態の時にたたかないといけないかを自分で判断しないとならないでしょ。ある面で俺のちょっとマニアック的なところで、生活そのものを狩猟に特化していったもんだから、そういう風に考えるのかもしれませんけれども。だから狩猟を始めようという人は、ただ鉄砲持って山に行って始めようと思っちゃダメなんですよ。その前に大事なものが一般生活の中にあるっていうことに早く気がついてほしい。

(銃を増やせばシカが減るというような行政の取り組みは?)鉄砲を持たせたって、ただ危険人を増やすだけで、なんもなんないですよ。やっぱりそのあたりを、こういう会だとかでキチッと教えていかないと。でっかいクマでも当たれば死ぬような武器を持って歩くわけですからね。何かあったら簡単に死ぬんだと。だから20歳になってから講習を受けて出されても遅いんです、はっきり言って。モデルガンでもなんでもいいから、武器に馴染むということをやっていないと。

(アメリカのハンティングスクールに行った理由は?)猟だけで何年か暮らしていた自分の技量、物の考え方、または自然に対する考え方が、狩猟の本場であるアメリカでどのくらい通用するかってことを、自分としても試してみたかったんですね。

(『羆撃ち』の反響)そうですね、やっぱりうーん、ああいう物を書いて出してしまって、また自分の知らなかった世界に入り込んだなという感じがしました。内容が内容だけに、女の人には受けないだろうと出版社の人が言ってて、あんまり宣伝してくれなかったらしいんですけども。ところが鉄砲をやらない人たちや女性にもかなり人気が出てきたって、出版社がそっちの方に回してみたりという経緯もあったようです。

(私が久保さんの家におじゃました時にも、いきなり本を読んで来ましたって人が訪ねてきて、普通にお宅に上げてましたよね。よく来るんだって)だってあんな所までね、どったらもんが書いたかわからないような本で、そこまで来てくれるっていうのは、ある意味ありがたいことですよね。だけどその反面もあるんですよ。たとえば保護活動の人から突然電話が来てね。「なんでこの時代にクマを殺してまで肉食わないとなんないんだ!」って。だから「あなたは豚肉、鶏肉、ほかの肉、食わないんですか?」とやさしく訊くわけですよ。(やさしいかどうかは……)すると「それとこれとは話が違う」って言うから、「どう違うのか、私にわかる、理解できるように説明してください」って。「私はシカもクマも食いますし、ダメだっていう理由をもう少しわかるように説明してください」って。だいたい二度と来ないです。

(自分が食べる分しか獲らない)獲らないです。だって、ぜんぜん話は違うかもしれませんけれども、野生の動物が生きてた価値を出すのは、死んでからなんですね。自然死でもなんでもね。と私は考えてるんです。その生きてるところを私がボーンと撃ってしまって、ポロっと倒れた。その生きてた価値をどうやって出してやるかって言ったら、きれいに解体して、誰が食べてもこんなうまい鹿肉食ったことないって言わせるぐらいの処理の仕方をしなきゃ、その生きてたものの価値がなくなるんですよ。生きてたってことの証は、たとえ自然死でも、腐ってほかの動物に食われ、毛も巣の材料にされたりするような、それと同じような価値の出し方をしてやらなきゃ、ある意味、獲物に無礼だと思うわけです、私としては。だからたくさんの量、必要ないんです。シカなんて1日2頭もとったら、きれいに処理するの、大変じゃないですか。

(そういう思いを伝えていく、後進を育てるという意味で、女性の方がいいとかありますか?=能登註:インタビュアーは女性です)うん、女性は女性としていいところありますね。アメリカのハンティング学校の先生が学校を閉鎖する時に資料を全部くれたんですよ。お前だったら日本でもできると思うからって。アメリカ人だから日本の狭さをわからないでそう言ったと思うんですけども、全部譲ってくれまして。それをずっと何十年も眠らせておいたんだけども、いろんな人からもったいないからその技術を残すように考えた方がいいんでないか、と言われていて。娘の友達が札幌のど真ん中から7年ぐらい前にポッと来て、女の子だったんですけども、山菜採りに連れて行っても、実に勘がいいんですね。「ああ街場でもこういう子がいるのか。素人でもこういう子がいるのか」と思ったことが、学校みたいなことを始めるきっかけにもなりました。昔のマタギなんかは女の人を省くような歴史ですけれども、今の時代、若い男の子より女の子の方が、なかなかいいものを持ってる子が多いような気がするんです。その差はなんなんでしょうね。男がだんだん男じゃなくなってきてるのかもしれないですね、ある面で。