●「猟欲」について(所感まとめ)
同じハンターでも、考え方や立ち位置、価値観はそれぞれ異なる。共通していると感じたのは「真の意味でのインテリとは、こういう人たちのことなんだなあ」ということ。ここで云う「インテリ」とは、学問を書物や机上で修めた人という意味ではまったくなくて、独りで山にこもり、体と時間を使って考え抜いて、苦闘の末に自分の道を切り拓いた人たちという意味だ。私から見れば無条件に尊敬に値する。
彼らの存在そのものが、学校を出て就職して給料をもらってーーという至極一般的に思える価値観、もっと大げさに云うと、高度資本主義経済やひずみが隠せない現代の社会システムに対する強烈なアンチテーゼになっている。ほとんど何も考えずにそのラインの乗ってしまった己を省みると恥じ入るばかりだ。
話が際限なく広がってしまうので、ここでは講演・対談の中で出てきた「猟欲」というキーワードに絞って考えてみる。
人は誰でも多かれ少なかれ「狩りをしたいという欲」を抱えている。ゲームでも、博打でも、スポーツでも、仕事でも、人は常に競っているし、誰かと何かと争いつづけている。あるいは金持ちになりたい、出世したい、社会で認められたいといった願望も、これすなわち「猟欲」の一種と捉えられる。あるのは濃淡の違いだけだ。
パチンコで大当たりを引いて脳内麻薬が出る人もいれば(いわゆる射幸心)、釣りで魚がヒットした瞬間にシビれる人もいる。映画や音楽に触れて感動したり、コミケで狙いの同人誌を手に入れてほくそ笑んだり、アイドルと握手して神に感謝したり(笑)、これすべて「猟欲」と同じ欲動なのではないか。
「金」という対価を払えば、大抵のモノが信じられないくらいに手軽に手に入る世の中で、あえて野生鳥獣を仕留めて「肉」を得ようとする行為は、考えてみるとこの上ない贅沢な行いだとも云える。私たち街場の人間は「金」を媒介して「肉」を手に入れているだけであり(そのプロセスからできるだけ目をそらしてきた)、彼らの話を聞いていると「金」を稼ぐためにあくせく働くことが本末転倒のようにすら思えてくる。ハンターはこの「群れで暮らす人間社会の仕組み」をショートカットしてしまう存在だ。
今回のサミットのテーマは「次世代へつなげる」。日本の猟師の実数は10万人弱とも云われるが、実はどの世代にも「猟欲」を強く持ち、野生動物を獲って食べてみたいなあ、と思っている人が一定数いるのではないか、と獲物を狩ったことがない私は推察する。ほとばしるような熱い「猟欲」を持つ人は、どんなハードルがあってもハンターになってしまうはずだ。だって、やりたい人は何があってもやっちゃうからね。そういう性質(タチ)なんだとしか云いようがない。
「欲」が絡むからこそ、ハンターは己を厳しく律さなければならない。自らの行動に厳しい規範を課さなければ、危険なだけでなく、その「欲」が際限なく膨らんでしまう可能性があるからだ。
さて、そもそも動物が苦手な私に果たして狩猟ができるかどうか(ハンターはみんな動物が大好き)。「猟欲」と覚悟と克己心が心もとないため、無理だと思っています、現時点では。体力も足りない。虫も怖い。それとねえ、独身には銃を持たせてはいけないような気がするよ、なんとなく。
「狩猟サミット」からの帰り道。小雪がちらつく中、自分の車で来ていた私は、出発してすぐにガードレールの向こうに佇むエゾシカを見つけた。さすが北海道、さすが日高地方。写真に撮ろうとゆっくりスピードを落としたところで、その立派なツノをたたえた真っ黒なオスはパッと身を翻して谷底に消えていった。「それが正解。この後に来るバスにはねえ、日本有数の腕前を持つ、君たちの天敵がたくさん乗っているからね」。