アナタの住みたい世界(独身論)④「優雅な生活」

 

「そうなんですよ、私もそうじゃないかと思うんですよ」と田沢経理課長補佐がいった。
「私と家内が仲よくなったのは、入社して5年目ぐらいなんですがね、あるとき私、1人で残業してましてね。帰ろうと思ったら、電気がひとつ点いてまして、家内が泣きそうな顔でソロバンいれてるんですよ。ソロバンならこっちも自信がありますからね、家内ならまだ4、5時間かかろうって所を一緒にやって30分で片づけたんです。ところがですねえ、いまになって考えてみると、どうも家内は、私に気があって、失礼、私の気をひくために、しなくてもいい残業をしていたような気がして仕方がないんです。ソロバンでこられたのが、私の弱みでしてね、どうも私もひっかけられたクチですかな……」

 江分利は総務課の柴田ルミ子を廊下へ呼びだして手帳を返した。
 ルミ子は、アッと小さく叫んで手帳を受けとり、駆けるように5、6歩行ってから急に立ちどまって、「内緒ネ、おねがい!」といった。
 ちぇっ、バカラシイ、と江分利は思った。(「女」め!)しかし、固い女子社員の固さが急にとれ、急に女らしくなる瞬間に当事者として直面することが、江分利にはもうない、と思うと少し淋しかった。江分利はだまって歩きだした。

 

『江分利満氏の優雅な生活』山口瞳 より
昭和四十三年二月二十日発行 新潮文庫
※昭和三十七年下半期の直木賞受賞作(能登註)。

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