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「楠瀬!」と鬼六はいきなり電話口で叫んだという。鬼六が編集者を呼び捨てにするのはごく稀なことだ。楠瀬は鬼六との打ち合わせを終えて帰宅の途上にあった。
「はいっ?」と楠瀬が携帯電話で応えると鬼六はこう叫んだ。
「アナルやあ!」
「はい?」
「楠瀬、アナルセックスやあ」
その言葉を聞いた楠瀬は感動のあまりその場にへたり込みそうになった。
それが鬼六の編み出した、不貞を働いた夫人への最後の仕打ちであった。そしてそれは聞けば聞くほど、その物語に的確に当てはまるエンディングのように楠瀬には思えてならなかった。
「アナルやあ!」という鬼六の高揚した声が今も楠瀬の耳から離れない。
「アナルセックスやあ!」
この逸話を聞いたとき、私は椅子から飛び上がるような気分だった。追いつくことのできない表現者としての飛び抜けた資質を、鬼六の興奮の叫びの中に感じざるを得なかったからである。
ちょっと説明を加えますと、SM作家・エロ事師としてすでに大家であり、名を成していた団鬼六が60歳を超えて文芸誌に書いた中編小説が『不貞の季節』。夭折した天才棋士・村山聖の評伝『聖の青春』の著者である大崎善生が、晩年の鬼六に寄り添って取材を重ね、その人物像と創作の裏側に迫ったノンフィクションが『赦す人 -団鬼六伝-』です。
団鬼六はですね、破滅型のアマチュア棋士の生き様を活写した『真剣師 小池重明』を引き合いに出すまでもなく、とにかく文章がうますぎるんですよ。何を書いてもおもしろすぎる。そんな鬼六が発表した純文学(!)が『不貞の季節』。小説は、団鬼六というSM作家が妻の浮気の顛末を打ち明けるシーンから始まります。
妻が不貞を働いたのは今から二十年ばかり前だった。
当時私は四十歳、妻は三十四歳で私を裏切ったのである。
不倫の相手は鬼六が設立した「鬼プロ」で緊縛師として働く色事師・川田五郎。部下であり、弟子であり、信頼していた男だった。一方の妻は謹厳実直な英語教師で、鬼六のハチャメチャな女遊びやエロダクションの仕事を毛嫌いし、いつも攻めていた。そんな妻がよりにもよって何で川田と……という煩悶で鬼六は嫉妬に狂っていく。